主君島津斉彬急死後の月照との入水事件(1858)で奄美大島に流されていた西郷(34歳)は、島津久光(斉彬の異母弟で藩主忠義の父)の上洛(京都入り)準備のため鹿児島に呼び戻され、島妻の愛(アリカナ、愛加那)に新築の家(西郷南洲流謫跡)と田を与えて、文久2年1月14日(1862年2月12日)龍郷村(龍郷町)を去った。
2月12日(3月12日)鹿児島上之園の借家に到着。上洛中止の進言(「斉彬公ならば大事を成し遂げられるべきも、久光公は地五郎(田舎者)であって…」)は容れられず、下関での待機命令を受け3月13日(4月11日)鹿児島発。途上、京の不穏な動きを察して自らの判断で動いた西郷に、度量の小さい久光が激怒。村田新八、森山新蔵とともに捕縛され、4月11日(5月9日)大坂から船で鹿児島へ護送された。
※案の定、4月23日(5月21日)に伏見で寺田屋事件が起き、薩摩藩士が斬り合うこととなる。
西郷の失脚は、斉彬子飼いの西郷に反感を抱く久光側近の讒言と大久保利通の謀略によるものであったが、西郷がその事実を知るのはまだ先の話である。
―大久保には西郷の才覚と人柄を利用しておのれの保身をはかる癖があり、西郷には生涯を通して、詰めが甘いという癖があった。
護送船は山川湊(指宿市山川)で2カ月待命(この間、森山は船中で自害)後、西郷には徳之島行きの藩命がくだり(村田は喜界島)、6月14日(7月10日)山川を出帆した。
屋久島北端の宮之浦村一湊(屋久島町一湊)と大島西端の西古見村西之古見湊(瀬戸内町西古見)に寄港して、文久2年7月5日(1862年7月31日)徳之島浅間村の湾仁屋湊(天城町浅間湾屋)に到着。津口番所の役人への名乗りは、大島三右衛門(藩命による改名)。
湾屋の(湾)直道の家に1週間ほど泊まったあと、後々まで家族で親切を尽くした島役人(琉)仲為(「仲為日記」の筆者)の世話で、岡前村(天城町岡前)の(松田)勝伝の家(西郷隆盛謫居跡)へ移った。
西郷は、大島代官所(奄美市名瀬)の役人木場伝内へ書簡で事の顛末を詳しく述べたあと、「徳之島から二度と出られないとあきらめれば心は安らかだ。馬鹿らしい忠義立てはもう止める」と結んでいる。
※江戸時代、徳之島の行政区域は三間切、六噯。西目間切が岡前噯・兼久噯、東間切が亀津噯・井之川噯、面縄(面南和)間切が伊仙噯・喜念噯。噯役場に与人、惣横目などの島役人(島役)がいて、噯の下に村(集落=シマ)があった。薩摩から赴任した詰役(代官1人・附役3人・横目2人)のいる代官所は亀津村にあった。ただ西郷は代官の招待を断り、亀津へは行っていない。
8月26日(9月19日)愛加那(26歳頃)が、2歳の菊次郎、7月2日(7月28日)に生まれたばかりの娘菊草を連れ、兄の富堅、龍郷の島役人宮登喜に伴われて徳之島へ移って来る(板付舟で龍郷湾から出帆、山湊に上陸)。しかし久光の「沖永良部へ島替えのうえ牢込め」の命令が岡前に届き、共に過ごせたのは1週間ほど(諸説あり)であった。
※当時奄美大島大和浜(大和村)に左遷されていた西郷の親友桂久武(お由羅騒動で切腹した赤山靭負の弟)のもとに8月1日(8月25日)、富堅が菊次郎を連れて徳之島へ移る暇乞いに来ており、桂は、西郷への書簡、西郷の好きなタバコ、米2俵を受け取る書類などを渡している。
西郷は三京村(天城町西阿木名三京)経由の山越えで井之川村(徳之島町井之川)へ移され、護送船の支度が整うまで、舟牢と与人の(奥)屋山宅(現奥山家)を行き来した。島役人の(龍)禎用喜が故意に牢の完成を遅らせ、親身に西郷の世話をした。
西郷の「囚人」護送船が沖永良部島へ向け井之川湊を出港したのは、文久2年閏8月14日(1862年10月7日)のことである。
―このわずか数年後に徳川幕府が倒れて明治維新を迎えること、そしてその中核に西郷がいることを、このときまだ誰も知らない。
西郷の徳之島滞在は2カ月余(1862.7.31-10.7)にすぎない。
しかし「未決囚」というそのいかにも中途半端な処遇によって島人とも親しく交わることのできた徳之島在留の日々は、奄美大島潜居の3年、沖永良部島遠島の1年半とともに、西郷にとって大きな意味を持つものとなったのである。