徳之島の歴史


先史時代 旧石器時代3万年~13000年前)の遺跡は、現時点ではアマングスク遺跡(伊仙町木之香(きのこ)、ガラ竿(ゾウ)遺跡(伊仙町小島(こじま)2カ所。縄文時代13000年~3000年前)の遺跡は、面縄(おもなわ)貝塚(伊仙町面縄)下原(したばる)洞穴(どうけつ)遺跡(天城町西阿木名(にしあぎな)塔原(とうばる)遺跡(天城町兼久(かねく)本川(ほんがわ)貝塚(徳之島町南原(みなみはら)など多数ある。なお奄美を含む琉球史では、縄文時代から11世紀頃(平安時代)までを貝塚時代という。

※奄美地域の先史時代(文字のない時代=旧石器時代・貝塚時代)を、奄美世(あまんゆ)ともいう。

平安初期成立の史書『(しょく)日本紀(にほんぎ)797に、文武(もんむ)699七月「多褹(たね)(種子島)夜久(やく)(屋久島)菴美(あまみ)(奄美大島)度感(読み未詳(みしょう)等の人、朝宰(みこともち)(地方官)に従いて(きた)りて方物(ほうぶつ)(特産物)(こう)す。度感嶋中國(なかつくに)に通ずるはここにおいて始まれりとあり、度感が徳之島のことであれば、ヤマト政権大和(やまと)朝廷)への朝貢(ちょうこう)の始まりは飛鳥末期となる

中世 11世紀から14世紀前半にかけて徳之島で陶器(カムィヤキ)が大量生産され(カムィヤキ古窯(こよう)(あと)伊仙町阿三(あさん)・伊仙・検福(けんぷく)琉球(りゅうきゅう)列島で広く流通した。

※ただ中世(平安時代・鎌倉時代)の史料がなく、グスク時代(グスク)按司世(あじゆ)按司(あじ)豪族村長(むらおさ))、カムィヤキ時代など、時代の名称も確定していない。

琉球国時代 のち琉球(りゅうきゅう)王国が奄美群島を支配。服属(ふくぞく)開始時期は、琉球の三山(さんざん)時代14世紀)から中山(ちゅうざん)による琉球国統一1429後の1430年代の間(ほか諸説あり)

※奄美が琉球に統治(とうち)されてい時代(室町時代・安土桃山時代那覇世(なはんゆ)とも呼ぶ。

薩摩藩時代 江戸時代初め16093月)島津軍3千人が奄美・琉球に侵攻(しんこう)し、ほぼ戦わずして1カ月で制圧(徳之島のみ湾屋(わにゃ)秋徳(あきちゅ)抵抗するも先発隊がすぐに鎮圧)

薩摩藩は表面上琉球王国を存続させ、道之島(みちのしま)(奄美群島)も、琉球国領のまま直轄(ちょっかつ)支配した大和世(やまとゆ)という)。行政区画も琉球国時代と同じ間切(まぎり)6(あつかい)45

(しぎゃ)間切亀津(かむぃじ)噯・井之川(いのー)西目(にしめ)間切=岡前(うわずん)噯・兼久(かねく)面縄(うんのー)間切=伊仙(いすぃん)噯・喜念(きねん)噯。それぞれの(あつかい)役場(やくじょう)に、与人(よひと)(琉球国時代の大親(うふや)間切横目(よこめ)などの島役人(島役(しまやく)いた。代官(だいかん)附役(つけやく)横目(よこめ)など薩摩藩の役人(詰役(つめやく)任期2年)がいる代官所(役所)、仮屋(かりや)(官舎)亀津(かむいじ)にあった。

江戸後期、換糖(かんとう)上納(じょうのう)1747や大飢饉(ききん)1755により(きび)(さく)(サトウキビ栽培)が拡大、惣買入(そうかいいれ)(藩の専売制)(1830以降、苛酷(かこく)な収奪がおこなわれた(幕末の黒糖地獄

※ただ、それ以前から大地主・島役人の債務(さいむ)奴隷(どれい)となった家人(ヤンチュ)(島により呼び名は異なる)がおり、明治4年(1871)政府が解放令を出したあとも(昭和まで)、島民による島民支配が存続した。

ノロ神女(しんじょ)職)ユタ(民間巫女(みこ))が多くの域をシマ(集落)に指定したため農地開発も遅れた。

百姓一揆に、母間村(ぶまむら)の数百人が亀津村(かむぃじむら)の代官所に押しかけた母間騒動(ぼまそうどう)1816と、犬田布村(いんたぶむら)の百数十人が役人に抵抗した犬田布騒動(いぬたぶそうどう)1864)がある。

※ともに首謀者(しゅぼうしゃ)島へ流刑(るけい)となり、騒ぎに加わった村人もさほど重い処罰は受けていない。

近代 明治41871廃藩置県で鹿児島県編入、明治121879大島郡発足。
※明治13年の地租改正のとき江戸期45村のうち平山村、九年母(くねんぼ)村、三京(みきょ)村の3村が廃村。

※明治20年、大島郡内の(漢字表記が)同じ村名の片方が改称。徳之島では秋徳(あきちゅ)村→亀徳村、和瀬(わし)村→徳和瀬(とくわせ)村、久志(くし)村→下久志村、阿木名(あぎな)村→西阿木名村、浅間(あざま)村→阿三(あさん)村。

明治411908島嶼(とうしょ)村制により亀津村・天城村・島尻(しまじり)村の342となる。

大正51916天城村から東天城村(ひがしあまぎそん)が分立。当時の人口は4合計で53,540人。

※亀津村12,911人、東天城村10,090人、天城村12,739人、島尻村17,800人(大正9年)

大正101921島尻村が伊仙村に改称。昭和161941亀津村が亀津町に。

米軍時代 敗戦後の昭和21194622(二・二宣言)、北緯30度以南(トカラ列島以南)の「北琉球」が米軍統治(とうち)(軍政下)に置かれたアメリカ()

奄美大島を中心とする激しい復帰運動の結果、サンフランシスコ平和条約19519月)に基づく北緯29度以北(トカラ列島十島(としま)村)の返還(昭和27年(1952428日)に続き昭和2819531225日、北緯27度以北(奄美群島)日本復帰を果たした。

※このとき奄美に切り捨てられた沖縄の本土復帰(沖縄返還)は昭和47年(1972515日。

現代 昭和331958亀津町と東天城村が合併して徳之島町が発足。昭和361961に天城村、昭和371962に伊仙村が町制施行(しこう)、現在の島内3が成立した。「平成の大合併」の際の、「とくのしま町」への合併協議2002-05は、徳之島町の住民投票で反対多数となり決裂した。

令和32021、「奄美大島、徳之島、沖縄じま北部およ西表島いりおもてじま世界自然遺産に登録された(徳之島の登録地は天城岳、井之川岳・剥岳はげだけ・犬田布岳の2区域)