西郷隆盛の徳之島在留


主君島津斉彬(なりあきら)急死49歳から4カ月後の月照げっしょうとの入水じゅすい事件1858により奄美大島に流されていた西郷(菊池源吾)は、島津久光(斉彬の異母弟、藩主の父)上洛じょうらく(京都入り)準備のため鹿児島に呼び戻され、島妻とうさいあい愛加那あいかなに新築の家(西郷南洲流謫跡)と田を与えて、文久ぶんきゅう21141862212日)龍郷村たじごむら龍郷たつごう町)を去った。

212312日)鹿児島上之園(うえのその)の借家に到着。上洛中止の進言(「斉彬公ならば大事を成し遂げられるべきも、久光公は地五郎(じごろ)(田舎者)であって…」)()れられず、下関での待機命令を受け313411日)鹿児島発。途上、京の不穏(ふおん)な動きを察して自らの判断で動いた西郷に、度量の小さい久光が激怒。村田新八(しんぱち)、森山新蔵とともに捕縛(ほばく)され、41159日)大坂から船で鹿児島へ護送された。

 ※案の定、423日(521日)に伏見で寺田屋事件が起き、薩摩藩士が斬り合うこととなる。

西郷の失脚(しっきゃく)斉彬()()いの西郷に反感を抱く久光側近の讒言(ざんげん)大久保利通(としみち)謀略(ぼうりゃく)によるものであったが、西郷その事実を知るのはまだの話である

大久保には、西郷の才覚と人柄を利用しておのれの保身(ほしん)をはかる癖があり、西郷には生涯を通して、()めが甘いという癖があった。

護送船は山川湊(やまがわみなと)指宿(いぶすき)山川)2カ月待命(たいめい)(この間、森山は船中で自害)後、西郷には徳之島行きの藩命がくだり(村田は喜界島)614710日)山川を出帆(しゅっぱん)した。

屋久島北端の宮之浦村一湊(いっそう)(屋久島町一湊)、大島西端西古見村(にしくみむら)西之古見湊(にしくみみなと)(瀬戸内町西古見(にしこみ)に寄港して、文久2751862731日)徳之島浅間村(あざまむら)湾仁屋湊(わにゃみなと)(天城町浅間(あさま)湾屋(わんや)に到着。津口(つぐち)番所の役人への名乗りは大島(おおしま)三右衛門(さんえもん)(藩命による改名)だったという。

湾屋の(わん)直道(なおみち)の家に1週間ほど泊まったあと、後々まで家族で親切を尽くした島役人(りゅう)仲為(なかため)(「仲為日記」の筆者)の世話で、岡前村(うわずんむら)(天城町岡前(おかぜん)(松田)勝伝(かつでん)の家(西郷隆盛謫居跡)へ移った。

西郷は、大島代官所(奄美市名瀬)の役人木場(こば)伝内(でんない)の返信で、事の顛末(てんまつ)を詳しく述べたあと「徳之島から二度と出られないとあきらめれば心は安らかだ。馬鹿らしい忠義立てはもう止める」と結んでいる。

※江戸時代、徳之島の行政区域は三間切(まぎり)、六(あつかい)西目(にしめ)間切

岡前(うわずん)噯・兼久(かねく)噯、(しぎゃ)間切が亀津(かむぃじ)噯・井之川(いのー)噯、面縄(おものー)(面南和)間切が伊仙(いすぃん)噯・喜念(きねん)噯。噯役場(やくじょう)与人(よひと)(そう)横目(よこめ)などの島役人(島役)がいて、噯の下に村(集落=シマがあった。

薩摩から赴任した(つめ)(やく)代官(だいかん)1人・附役(つけやく)3人・横目2人)のいる代官所は亀津村にあった。ただ西郷は代官の招待を断り、亀津へは行っていない。

西郷34歳)に呼ばれた愛加那26歳頃)826919日)菊次郎2歳頃)72728日)に生まれた娘菊草(きくそう)を連れ、兄の富堅(ふけん)龍郷の島役人宮登喜(みやとき)に伴われて徳之島へ移る(板付舟で(さん)湊に上陸)。しかし久光の「沖永良部へ島替えのうえ牢込め」の命令が岡前に届き、共に過ごせたのは1週間ほど(諸説あり)であった。

※当時、大島大和浜(やまとはま)大和村(やまとそん)に左遷されていた西郷の親友(かつら)(ひさ)(たけ)(お由羅(ゆら)騒動で切腹した赤山靭負(ゆきえ)の弟)のもとに81825日)富堅が菊次郎を連れて徳之島へ移る暇乞(いとまご)いに来ており、桂は、西郷への書簡、西郷の好きなタバコ、米2俵を受け取る書類などを渡している

西郷は三京村(みきょむら)(天城町西阿木名(にしあぎな)三京(みきょう)集落)経由(けいゆ)の山越えで井之川村(いのーむら)(徳之島町井之川(いのかわ)へ移され、護送船の支度が整うまで、舟牢と与人(よひと)(おく)屋山(おくざん)奥山(おくやま)を行き来した。島役人の(りゅう)禎用喜(ていよ(う)き)故意に牢の完成を遅らせ、親身に西郷の世話をした。

西郷の「囚人」護送船が沖永良部島へ向け井之川湊(いのーみなと)出港したのは文久2(うるう)8141862107日)のことである。

このわずか数年後に徳川幕府が倒れ明治維新を迎えること、そしてその中核に西郷がいることを、このときまだ誰も知らない。

西郷が徳之島にいたのは、わずか2カ月余1862.7.31-10.7にすぎない。

しかし、「未決囚みけつしゅう」というそのいかにも中途半端な処遇によって島人とも親しく交わることのできた徳之島在留の日々は、大島潜居せんきょ3年、沖永良部島遠島えんとう1年半とともに、西郷にとって大きな意味を持つものとなった。