徳之島の基礎知識


地理

九州と台湾の間に浮かぶ鹿児島県と沖縄県の島々を「南西諸島」、そのうち鹿児島県に属する島々を「薩南諸島」という。その奄美大島以南が「奄美群島」で、奄美大島、加計呂麻島、請島、与路島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の有人島8島からなる。

徳之島は鹿児島市から約500キロの洋上にあり、南北約26キロ、全周約80キロ。

徳之島の昨年の人口は徳之島町が10,652人、天城町が6120人、伊仙町が6884人で、三町合計で23,656人。

歴史

平安初期に成立した『続日本紀』(797)に、699年に「多褹(種子島)、掖玖(屋久島)、菴美(奄美大島)、度感の人が貢す」とある。「度感」は読み未詳だが徳之島とする説が有力。とすれば徳之島は、飛鳥時代にすでに大和に朝貢していたということになる。

その後の、各地の豪族が支配した「按司世」(あじんゆ)と呼ばれる時代を含め、中央に組み込まれてはいたものの独自性を保っていたとみられる時代を、「奄美世」(あまんゆ)と呼ぶ。

1263年(諸説あり)に徳之島を含む奄美群島は琉球に征服される。この中世の琉球支配時代を「那覇世」(なはんゆ)と呼ぶ。

1609年、薩摩藩が奄美群島と琉球に侵攻し、奄美群島を直轄領とした。この江戸期の薩摩支配時代を「大和世」(やまとんゆ)と呼ぶ。

1871年(明治4)の廃藩置県を経て、明治以後は鹿児島県大島郡に属す。

太平洋戦争敗戦後は米軍の占領下に置かれ、1946年(昭和21)2月2日に日本から分離された。その後8年間の米軍施政下だった時代を「アメリカ世」(ゆ)と呼ぶ。

日本復帰運動が実を結んで日本に返還されたのは、1953年(昭和28)12月25日であった。

 

徳之島と西郷隆盛


●「遠島」の藩命を下された西郷隆盛の護送船が徳之島の北西部、湾屋(天城町)に到着したのは、文久2年7月5日(1862年7月31日)である。

遡ることわずか半年。奄美大島に潜居していた西郷は島津久光の上洛準備のために鹿児島に召喚され、島妻の愛加那に新築の家を与えて1月14日(2月12日)、3年を過ごした奄美大島を離れた。しかし上京の途上、自らの判断で動いた西郷に狭量な久光が激怒。西郷は捕縛され、4月11日(5月9日)大坂から鹿児島に護送された。島からの帰還から、わずか2カ月後のことであった。島津斉彬(なりあきら)子飼いの西郷に反感を抱く久光側近の讒言(ざんげん)と大久保利通の謀略によるものであったが、「またまたしくじって徳之島へ遠島となり、我ながらあきれている」(島役人への書簡)と、西郷は非難も言い訳もしていない。大久保には西郷の才覚と人柄を利用して保身に走る癖があり、西郷には、詰めが甘いという癖があった。

西郷の護送船は山川港(指宿市)で待命ののち、6月14日(7月10日)に出帆。屋久島、奄美大島西端の西古見(にしこみ=瀬戸内町)を経て、7月5日(7月31日)に徳之島に上陸した。西郷は1週間ほど湾屋の民家に泊まったあと、後々まで家族で西郷に親切を尽くした島役人、仲為(なかため)の世話で、港近くの岡前(おかぜん=天城町)の民家に落ち着く。

8月26日(9月19日)、移送の近いことを知った西郷に呼ばれ、愛加那が2歳の菊次郎と7月2日(7月28日)に生まれたばかりの娘の菊草(きくそう)を連れて奄美大島から渡って来て、数日を共に過ごす(諸説あり)。藩からの沖永良部島遠島命令が届き(8月27日(9月20日)頃)、西郷は島東部の井之川(徳之島町)に移された。ここでも島役人の禎用喜(てい・ようき)が親身に世話をした。

舟牢に入れられ、西郷が沖永良部島に向けて出帆したのは、文久2年の閏8月14日(1862年10月7日)。時はいまだ薩摩藩の圧政下。わずか数年後に幕府が倒れ明治維新を迎えること、そしてその中核に西郷がいることを、このときまだ誰も知らない。

西郷が徳之島にいたのはわずか2カ月余にすぎない。しかし「未決囚」としてのそのいかにも中途半端な処遇により、多くの書簡をやり取りし島役人や島人らと心を通わせた徳之島での日々は、奄美大島「潜居」の3年間、「囚人」としての沖永良部島での1年半とともに、西郷の生涯にとって大きな意味をもつものとなった。